<WEDGE1月号より前回の続き>
大阪の衰退の契機になったものは工業への強い規制であったと言われます。高度経済成長期、東京都や大阪府などの都市部では、産業と人口が過度に集中していたことに加えて、公害が深刻化していた。その為に、工場等制限法や工業再配置促進法、工場立地法の「工場三法」で規制をかけることになりました。関西圏の工業生産もピークに達しており、制限をかけるというのは当時としては当然であったかもしれません。しかし、その背後には前回述べた、産業構造の変化が既に起き始めてており、この工場3法はそれに拍車をかけることになったようです。その構造変化に
気づくのが遅かったとも言われています。

結果としては、大阪都心部から周辺都市へ、そして関西以外の地域や海外の中国へと移転してしまいました。

そして、71年、大阪府政に転機が訪れることになります。「公害知事さんさようなら、憲法知事さんこんにちは」をスローガンに黒田府知事の誕生です。

黒田府知事の時代になり、工場等制限法を厳密に適用し、工場を追い出し、大学についても同様に大阪府内の中心にあった大学を市外に移転させた、と言われます。大阪市に立地する大学は11校であるのに対して東京都は91の大学があり、学生数も東京都内の47万人に対して、大阪市では約2万8000人に留まると指摘されています。

大阪では企業と大学との連携も不足しており、ベンチャー企業が育たないとも言われているようです。

その後、黒田府政は、老人医療無料化・府立高等学校増設など、低所得者層を重視した福祉政策に傾斜していきます。ここにおいて指摘されるのは、経済との両立、税収とのバランスです。バランスを欠いた福祉政策や構造基盤が弱体化しているにもかかわらず、関空建設等において
更に財政を苦しめる政策が続き、結果として大阪は全国でもワースト3に入る失業率と極めて厳しい財政を抱えることになったのです。

大阪市の生活保護費は税収の約半分を占めるまでになっています。
これは驚く記録ですが、戦後すぐの51年には生活保護率(人口に占める生活保護受給者の割合)は全国でも2番目に低い0.15%に過ぎなかったと言われます

大阪の衰退要因が重なり始めた70年代半ばから全国トップ水準の生活保護率に駆け上がったようです。以下は、次回、「生き残り戦略を大阪から学ぶ」について要点をまとめてみたいと
思います。