<前回に続く>

医師としての道を定める
 大塚は、慶応義塾大学医学部を卒業、同大学の精神神経科学教室から、派遣先の精神科の病院に11年間勤務し、フランス留学を経て医学博士号を取得している精神科の医師である。ライフワークとして取り組んでいる分野とは相当に隔たりがある。そもそも大塚がなぜ医学を志し、高齢者の医療と福祉をつなぐ分野に情熱を注ぐことになったのか。病院を創設すること、しかもそれまで世の中に存在しなかった新しい価値観の病院を生み出すことは、資金面も含めて想像を絶する困難があったのではないかと思われる。

 岐阜県の寒村の生まれで、両親はともに教師という家庭の6人兄弟の4番目。親は教育には熱心でも、決して資産家ではない。

 「3つ上の姉がジフテリアで死んで、両親には子どもを死なせた無念があって、子どもたちのだれかが医者になってほしいと願ってましてね。深い考えもなく親孝行のつもりで医学部に入っちゃった。入ってから、何で医学部を志したかと聞かれて困りました」

 入口は親孝行でも、出口の精神科は大塚自身が選んだことになるはず。

 「いや、それもまた動機が不純でしてね。医学部時代、競技スキーをやっていて、試合中に転倒して頸椎捻挫。以来ひどいむち打ち症に悩まされ、立ち仕事の外科はダメとか消去法で残ったのが精神科だったんです」

 そんな大塚に大きな転機を与えたのは、1974年5月の、高校時代の親友からの相談の電話だったという。脳卒中で寝たきりの祖母に認知症の症状が加わり家族での介護が限界に達して、どこか預かってくれるところがないかというSOS。

 「一緒に探しに行って見た光景に非常にショックを受けました。和室にびっしり布団を敷き詰め、お年寄りはただ転がされている状態でした。人手がないから風呂にも入れられない。清潔じゃないし、暗いし、とにかく臭いがすごい。それでも待機者が多くて、4、5カ月待たないと入れないというんです。それをきっかけに考えるようになりました。受け身と消去法で進んできた医療の世界で自分の役割が見えていなかったんですが、やるべきことが見つかった気がしました」

 きっと医者としての使命感、自らのアイデンティティーがほしかったんだと思う、と大塚はそっと付け加えた。

 74年は高齢化率が7パーセントを超えた頃にあたる。7パーセントを超えるとさまざまな問題が発生し始めるそうだが、世の中はまだその深刻さを認識していなかった。せめて自分の親が安心して暮らせる施設がほしい。今それがないなら自分で病院を造ろう。現状を目の当たりにした衝撃の中で、32歳の大塚は激しく思い立ってしまったのだ。

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