最近のお葬式不要論が多発するなかで、お葬式の意味を考えさせられる記事です。ご紹介しておきます。人と人とのつながりが断たれてしまうと社会は成り立たなくなります。人の死に直面する最も不幸な時にこそ人の支えが必要なのではないでしょうか。葬儀が縮小し、最後は無くなる。それは日本社会が消滅しつつあることを示しているように思えてなりません。
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私がお葬式に極力行くようになったきっかけ

2017/10/17
熊谷信の「薬剤師的にどうでしょう」より

先週、古くからの友人のお父さんが亡くなり、お葬式に行ってきました。「結婚式のラッシュが過ぎると、年齢とともにだんだんお葬式に出る回数が増えるよ」なんていう先輩の言葉が思い出されます。ものすごく遠方だったり、どうしても都合が付かなければ、やむを得ず欠席することがありますが、お葬式には極力参列するようにしています。

 それは、私が年を重ねて社会的な付き合いを学んだり、「大人の付き合い」に必要だからということだけではありません。また、薬剤師だからというわけでもありません。大きなきっかけとなった今から5年前の出来事があります。

 2012年1月、不慮の事故で私の妹が亡くなりました。普段は別々に生活していて、さらに妹は遠方にいたので、あまり連絡を取っていなかったのですがが、32歳という若さで突然亡くなったのは本当にショックな出来事でした。

 そして、それ以上に悲しい思いをしたのが私の両親です。我が子に先立たれるつらさというものは、今も想像することすらできません。私は、父親が泣いている姿を生まれて初めて見ました。また母親は子どものようにワーワーと声を上げ、言葉にならない声を発しながら号泣していました。みんなが悲しみに暮れるそんな中で葬儀が執り行われました。

 私自身、その当時はお葬式に参列する機会は多くありませんでした。「お葬式なんて…」と書くと怒られるかもしれませんが、正直なところ、心のどこかではちょっと面倒な、そして大変なものだという認識で捉えていました。人が亡くなったら行わなければならない「形式的なもの」と考えていました。

 しかし妹の葬儀の際、和尚さんが父母に対して発した「娘さんをきちっと供養をしてあげることが大切です」という言葉を聞いて、考えが大きく変わりました。もちろん亡くなった妹のためでもあるのですが、残された父と母のためだったのです。亡くなった妹をきちんと送らなければ、残された家族はいつまでも沈んだ気持ちのまま。「残された人が気持ちに区切りを付け、前を向いて歩むために行われるのがお葬式なのだ」ということに、その時初めて気が付いたのです。

 改めて当時のことを振り返ってみると、妹が亡くなった際、親戚や近所の人が頻繁に父と母のところを訪ねてきてくれていたことを思い出しました。人が亡くなれば悲しいものですが、それでも前を向いて歩いていけたのは、そうした周囲の人たちの支えがあったからなのです。

 お葬式に行き、故人に対する感謝の気持ちやお悔やみを家族や親戚に伝えることはもちろん大切です。しかしそれ以上に、大切な人を亡くして深く沈んでいる人のところに駆け付けることで、そうした人の支えに少しでもなれたら、と思うのです。自分がこれまで生きてくる中で関わってきた大切な人だからこそ、少しでも恩返しができたら……。

 私が言うまでもありませんが、もし身近な人が大切な人を亡くすようなことがあれば、顔を見て言葉を掛けてあげてください。お葬式に参列できなければ、別の機会でもよいでしょう。そうした行いが人を勇気付ける、そう信じて、先週は冷たい雨が降る中、ハンドルを握りお葬式に向かいました。