<前回に続く>

後見人がつくのは、認知症が進んで、自分では物事が常に判断できず、人の助けを常に必要とする人の場合に限られる

だが、傍目からも、母・晶子さんは相手の言う言葉を正確に理解し、的確に自分の気持ちを言い表しているように見える。「お金でももらっているのか」というくだりなどは、素直な戸惑いや怒りの感情が十分に表現されていると言える。

後見人がつけられたあとの2017年8月、晶子さんと直接話した一般社団法人「後見の杜」の宮内康二代表(東京大学医学系元特任助教)はこう話す。

「お会いした際に、あらためてご本人の意思を確認したところ、『後見人は不要。このまま自宅で三女と一緒に暮らしたい』とキッパリおっしゃっていました。判断能力は十分あると言えましたし、後見人をつける必要性はまったく感じませんでした。

もし後見制度を使う場合でも、症状の重い後見類型ではなく、せいぜい、症状の軽い保佐か補助類型ではないかと判断しました」

ここで宮内氏の指摘する「類型」とは、「後見」「保佐」「補助」の三つの後見の種類のことで、単純化して言えば、認知症などの症状が重い人につけられるのが「後見」であり、「保佐」「補助」の順に軽くなっていく。それにともなって、本人の財産権の制約なども緩やかになっていくとイメージしていただきたい。

宮内氏の言葉通り、晶子さんはその後、専門医から「後見不要、保佐相当」という診断を受けているのだが、これについては続報で詳しくレポートしたい。

常態化する司法の「手続き飛ばし」

今回の記事で強調してお伝えしたいポイントは、家裁が、後見人をつけられる本人である晶子さんと会って、事前に意思確認や調査をしていないという点だ。これは極めて重大な問題をはらんでいる。

成年後見の実務について定めた家事事件手続法には、こうある。

<(陳述及び意見の聴取)第120条

家庭裁判所は、次の各号に掲げる審判をする場合は、当該各号に定める者(第一号から第三号までにあっては、申立人を除く。)の陳述を聴かねばならない。ただし、成年被後見人となるべき者及び成年被後見人については、その者の心身の障害によりその者の陳述を聴くことができないときは、この限りではない。

一、 後見開始の審判 成年被後見人となるべき者

……>

ここにある通り、後見人をつける場合、家裁(具体的には家裁の調査官)は本人と会って、その者の「陳述を聴かねばならない」と義務付けられている。

それを行わなくてよいのは「心身の障害によりその者の陳述を聴くことができないとき」と定められてはいるが、映像を見れば一目瞭然、今回のケースはまったくそれには当たらない。にもかかわらず、家裁は本人とは一切会わずに審判を下したのだ。

 

前出の「後見の杜」の宮内氏が言う。

「『心身の障害によりその者の陳述を聴くことができないとき』というのは、本来は植物状態で話が聴けないなど、極めて深刻な事態を想定して付け加えられた文言なのです。

ところが後見の現場では、家裁の勝手な都合で、この一文にどんどん拡大解釈が行われ、本人への家裁の調査なしの、いわゆる『手続き飛ばし』が横行しています」

映像から文書化した上記の会話の中でも「医師の診断書1枚で後見人をつけられた」とか「裁判所が話を聞いてくれなかった」といった本人と家族の不満が噴出していたが、これこそまさに、手続き飛ばしの実例と言っていいだろう。

国会論戦などの中で、法案に「~等」という表現があるとき、野党議員などが「これではいくらでも拡大解釈できる」などと異議を唱える場面をご覧になったことのある方も多いだろう。

「そんな上げ足取りのようなことばかり言って……『等』くらいいいじゃないか」と野党側を反対ばかりするメンドクサイ人々だと、つい思いがちだが、重箱の隅をつつくような反対意見の中にも、ときには重要なものもある。

行政でも司法でも、日本の官僚組織の実態をみると、注釈ひとつ、文言ひとつにも、拡大解釈可能な抜け穴を作ると、とんでもない結果を生むことがあるのだ。成年後見制度における手続き飛ばしは、その弊害が端的にあらわれた例だと言える。

ところが取材を進めてみると、今回取り上げた母娘のケースには、さらに深い成年後見制度の闇が潜んでいることが分かってきた。たとえば、母娘は家裁の審判への異議申し立ての特別抗告をする機会を奪われるなど、重大な権利侵害がいくつも判明したのだ。

いったい、何が起こっているのか。そこには成年後見制度を推し進める司法界のビッグネームも絡んで、複雑な様相を呈しているのだが、そのヘドロのような闇の実態は、今後詳述していきたい。