無尽灯

医療&介護のコンサルティング会社・一般社団法人ロングライフサポート協会代表理事 清原 晃のブログ
豊かな高齢者社会の構築に向けて、日々尽きることの無い気付き、出会いを綴って参ります。

カテゴリ: 医療型高齢者住宅

<前回に続く>

家族にとっての最高と、本人にとっての最高は、果たして両立できるのか。家族の求めることは概ね同じだけれど、本人が求めることは個人差が大きい。自分で自分の最期の過ごし方を決める。それが可能になれば心穏やかにこの世との別れを迎えられる。

 「そのためには、自分の裁量で使えるお金をしっかり残しておくしかないですね。年をとったらまず家族と縁切りとだれかが言っていましたが、これからの時代、まさに豊かな老後はそこからなんでしょうね」

親を看取った最後の世代は、子どもに看取られない最初の世代となって高齢期を迎え、最期の時をどう過ごすかは自分が決める時代になりつつある。自分の築き上げたものは子どもに残さず一代限り。その覚悟を固めれば、それなりに費用もかかる慶友病院での最期も選択肢に入るかもしれない。最晩年を家族任せや医療任せにしないための気持ちの整理や資金の準備に、早すぎることはないのかも……そんな思いを抱きながら、遠く新宿の高層ビルが望める屋上に出てみた。

敷地内に同居するよみうりランドのジェットコースターから歓声が聞こえる。最初はゆっくりトロトロ、やがて一気に手に汗握る大冒険の絶叫が続くジェットコースターと、その中でさえ笑顔で手を振る人々が間近に見える。実験的試みに果敢に挑戦する大塚の姿と重なるようで、轟音と歓声に思わず手を振り返していた。

大塚宣夫(おおつか・のぶお)
1942年、岐阜県生まれ。大学卒業後、79年まで精神科医として病院勤務、その間、フランス政府給費留学生として2年間渡仏。80年、高齢者専門の療養型病院として青梅慶友病院を開設、2005年、よみうりランド慶友病院を開設。著書に『人生の最期は自分で決める』(ダイヤモンド)

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そのためには、まずは土地を手に入れる資金が必要だろう。そう思った大塚は、元手を作るために自らの生活を一新したという。

 「まず1000万円貯めようと決めました。そのためには全部我慢する。土日も別の病院でのアルバイトを入れ、それ以外はすべて当直。休みなし。着る物も白衣のみ。楽しみは貯金通帳見ることっていう生活です」

 その結果、2年で目標達成。それを元に、青梅近辺で土地探しを始めた。青梅はアルバイト先の病院があった縁と、土地が安かったから。そんなある日、不動産業者と知り合いの農協職員と相談中に、いきなり見知らぬ人が部屋を間違えて入ってきた。地元の農協の組合長だった。土地を探す目的を話すと、地主4人で1000坪の土地を何か有効活用したいと検討していたところだという。大塚はさっそく組合長の家を訪ねた。組合長は1000坪の土地を貸してくれた上に、病院を建てるための借入金の保証人にもなってくれたという。

 「何もない自分をなぜ見込んでくれたのか聞いたんですよ。夜の回診を終えては家に押しかける私に、奥さんがいつもご飯を出してくれたんです。とにかく腹ペコだからね。どうも奥さんが、あんなに食べっぷりのいい人は見たことがない。信用していいんじゃないかって言ってくれたみたいなんです」

豊かな老後のために何ができるか
 何が幸いするかわからないものだが、組合長もまた、自分の思いを懸命に話す若い勤務医にいつしか惚れこんでしまったのだろう。かくして80年に147床の青梅慶友病院が誕生。病床はすぐ満杯になり、3回も増築し、10年後には800床に増えていた。それだけ世の中に需要があったということである。

 「でも経営は火の車。組合長さんに、人助けだと思ってどんどん頑張れと言われているうちに、借金が32億にもなってしまった」

 必要以上に薬や治療を積み上げれば点数が稼げて収入が増える出来高払いの診療報酬制度の下では、大塚の理想とする方針では経営が苦しくなるのは見えている。10年間信念を曲げずに突き進んだ結果、借金まみれになった大塚を救ったのは、診療報酬に包括払いが導入されたこと。点滴や検査を抑え生活と介護に力を入れてきた大塚に、やっと医療保険からの援護が届くようになった。経営は安定し、増える需要に応えるためにより都心に近いよみうりランド内に2つ目の慶友病院が誕生。時代が、やっと追いついてきた。親に安心して最期の時を過ごしてもらいたいという思いで突き進んできた大塚も、今年73歳。

 「自分が高齢になって、家族が親にしてあげたい医療、介護と、本人が求めることとの間のギャップに気がつきました。家族は親が身ぎれいにして、3食食べて、お風呂も毎日入れる状態が親の幸せと思うけど、本人にしてみるとけっこう面倒くさいし疲れる。家族が持ってきてくれた食べ物をいっぱい食べて、帰った後で具合が悪くなったりする人もいる。旅立つ人のためにいちばんいいことは何なのか。そのためにやらなければならないことは何なのか。そのための仕組みをどうやってつくれるのか。これからの課題ですね」
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医師としての道を定める
 大塚は、慶応義塾大学医学部を卒業、同大学の精神神経科学教室から、派遣先の精神科の病院に11年間勤務し、フランス留学を経て医学博士号を取得している精神科の医師である。ライフワークとして取り組んでいる分野とは相当に隔たりがある。そもそも大塚がなぜ医学を志し、高齢者の医療と福祉をつなぐ分野に情熱を注ぐことになったのか。病院を創設すること、しかもそれまで世の中に存在しなかった新しい価値観の病院を生み出すことは、資金面も含めて想像を絶する困難があったのではないかと思われる。

 岐阜県の寒村の生まれで、両親はともに教師という家庭の6人兄弟の4番目。親は教育には熱心でも、決して資産家ではない。

 「3つ上の姉がジフテリアで死んで、両親には子どもを死なせた無念があって、子どもたちのだれかが医者になってほしいと願ってましてね。深い考えもなく親孝行のつもりで医学部に入っちゃった。入ってから、何で医学部を志したかと聞かれて困りました」

 入口は親孝行でも、出口の精神科は大塚自身が選んだことになるはず。

 「いや、それもまた動機が不純でしてね。医学部時代、競技スキーをやっていて、試合中に転倒して頸椎捻挫。以来ひどいむち打ち症に悩まされ、立ち仕事の外科はダメとか消去法で残ったのが精神科だったんです」

 そんな大塚に大きな転機を与えたのは、1974年5月の、高校時代の親友からの相談の電話だったという。脳卒中で寝たきりの祖母に認知症の症状が加わり家族での介護が限界に達して、どこか預かってくれるところがないかというSOS。

 「一緒に探しに行って見た光景に非常にショックを受けました。和室にびっしり布団を敷き詰め、お年寄りはただ転がされている状態でした。人手がないから風呂にも入れられない。清潔じゃないし、暗いし、とにかく臭いがすごい。それでも待機者が多くて、4、5カ月待たないと入れないというんです。それをきっかけに考えるようになりました。受け身と消去法で進んできた医療の世界で自分の役割が見えていなかったんですが、やるべきことが見つかった気がしました」

 きっと医者としての使命感、自らのアイデンティティーがほしかったんだと思う、と大塚はそっと付け加えた。

 74年は高齢化率が7パーセントを超えた頃にあたる。7パーセントを超えるとさまざまな問題が発生し始めるそうだが、世の中はまだその深刻さを認識していなかった。せめて自分の親が安心して暮らせる施設がほしい。今それがないなら自分で病院を造ろう。現状を目の当たりにした衝撃の中で、32歳の大塚は激しく思い立ってしまったのだ。

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そのくらいしないと、染みついた医療中心、医師が上位の意識は変わらないという。

 慶友病院では、気管切開、経管栄養、複数のチューブやカテーテルで延命が図られていて今後さらなる延命を望んでいない人たちも受け入れる。延命のためには、一日1200キロカロリー以上の栄養、1000ミリリットルから1500ミリリットルの水分が必要になり、点滴や経管栄養や胃瘻などで体内に送り込まれる。ここでは、まずその量を減らし、同時にチューブ類も徐々に外す。すると一週間もたたないうちに体中の浮腫が消え、拘束が不要になる。

 「体が軽くなった、楽になったという方がたくさんいます。80代や90代で心臓や腎臓が弱っている人には、送り込まれる水分や栄養が負担になっていることが多い。能力を超えたものが入ってきて、何とか外に出すしかない。その苦しみは大変なものなんです」

 処理能力内に収めれば苦しみが緩和され、少量でも口から食べられるようになり、会話や食事の楽しみが取り戻せ、車椅子で散歩も楽しめるようになる。生活を取り戻した中で、静かに最期を迎えることができるというわけだ。一方、チューブを外せば病院側の仕事は一気に増える。痛みや苦しみを緩和し、誤嚥に気をつけ、体位を頻繁に変え、食事は飲み込みやすいようにさまざまな工夫をこらし、しかも少量ずつ何回にも分けるなど、人手も必要になる。人生最後の数カ月を少しでも心地よく過ごすには経費もかかる。保険が使えても利用者の負担額は決して安くはない。

 「それぞれの状況も経済力も考え方も違いますから、あくまで選択肢の一つです。どういう形で人生を終えるかは、文化そのものなんでしょうね。ヨーロッパでは、自分でスープが飲めなくなったらそれ以上の延命はせずに静かに寿命を受け入れる。動物の死に近い形で、あまり苦痛は伴わない。最後は医者ではなく宗教者の出番になる。日本では、どう死ぬかということはあまり考えてこなかったんじゃないでしょうか。長寿時代に医療は何ができるのか、豊かな最晩年をいかに実現できるかが私のライフワークで、二つの病院での成果や見えた課題を社会に発信し続けていくのが私の役割だと思っています」

<次回に続く>

独自の発想でつくり上げた終末期のための病院
人に寄り添う医療の可能性大塚宣夫(医師・医療法人社団慶成会会長)
2015年04月13日(Mon)  吉永みち子 WEDGE Infinity 日本をもっと、考える
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吉永みち子 (よしながみちこ)
1950年、埼玉県生まれ。85年、『気がつけば騎手の女房』で大宅壮一ノンフィクション大賞を受賞。著書に『母と娘の40年戦争』(集英社文庫)、『怖いもの知らずの女たち』(山と溪谷社)などがある。

治す医療から寄り添う医療へ、慶友会病院の大塚先生の記事を掲載します。このような病院があったことを初めて知りました。もっと、もっとこのような先生が出てこないものでしょうか? これからはもっとこのような病院が必要となりますね。このような病院がこれからの高齢社会の中核(ハブ)となっていかねばなりません。ご紹介させて頂きます。
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この熱き人々
高齢化が急激に進みつつあった70年代、独自の発想で終末期のための病院をゼロからつくり上げ、育ててきた。豊かな最晩年の実現をめざし人に寄り添う医療の可能性を追求する。

 広々としたエントランス、壁にはアート作品、花壇には四季の花々。ギャラリー? それともリゾートホテル? 一瞬、勘違いしてしまいそうだが、ここは「よみうりランド慶友病院」。病院なのである。しかし、外来受付はない。すれ違う入院患者はみんな高齢。車椅子の人も多い。昼下がりの院内には、リハビリに励む人、映画を見ている人、ジグソーパズルに取り組む人、新聞を読む人、まるで自分の家のように時間を過ごしている。夕暮れにはお酒を楽しむ姿も……。

 「入院している方の平均年齢は87歳。ここで暮らす余命が半年以内という方が4割から5割くらい。治療目的の病院ではなく療養病床中心で、高齢者が人生の残された時間をできるだけ苦痛がなく、家族と穏やかな時を過ごすための終(つい)の棲家なんです。医療はこれまでどうやって命を救うかということに真剣に向かってきたけれど、治療が不可能になると延命するしかない。ここは治療と延命のためではなく、高齢で治療ができない方、延命を望まない方の病院になります」

まず医療ありきの発想から、まず生活ありきでそれに医療と介護がどう寄り添ったら人は幸せな最期を迎えられるのかと発想を大逆転させて、青梅慶友病院とよみうりランド慶友病院を創設したのが、医療法人社団慶成会会長の大塚宣夫である。
院内を案内してくれた大塚は、白衣姿とはミスマッチの人なつっこい笑顔が印象的で、白衣がなければ僧侶のようにも見える。

 「ホスピスは、がんかエイズの末期の人は入れるけれど、高齢者で認知症やパーキンソン病などがん以外の病気で治療がすでに不可能な人たちは、治療目的の病院から出ると行き場をなくしてしまう。今、医療は医療機関で医療保険、介護は介護施設で介護保険、生活は個人で年金と分断されていますが、その3つがかかわっていないと人生の最期を豊かに過ごすのは難しいんです」

 生活と介護と医療の3つを融合するのは必要だが、難しい。その難しいことに大塚は挑み続けているのである。

 「高齢期も人生の一時期であり、どんな状況でも生活する場と環境が大事だと思うんです。生活するのに必要だから医療があり介護がある。医療は後方に控え必要な時に出ていくもの。この病院は看護師中心の仕組みで動いています。看護師は介護や医療の知識もあり、患者さんの状態や生活パターンも熟知しているから、今何が必要かわかる。コーディネーターは看護師で、点滴ひとつでも医師は看護師長と相談します。治療目的の医療と人の最期に寄り添っていく医療は全く違うんです」

<次回に続く>

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